原子力問題特別委員会で質問に立ちました。(令和元年12月5日 議事録)
○玄葉委員 共同会派に属しております玄葉光一郎です。 三人の先生方、本日もありがとうございます。これまでの委員会での議事録、そして、改めて国会事故調の報告書にも目を通してまいりました。 時間がないものですから、きょうは、黒川先生と石橋先生に一問ずつお尋ねをしたいというふうに思います。
黒川先生とは、一年前に、朝河貫一のシンポジウムで、パネラーで御一緒をさせていただきました。私は、福島県選出の国会議員でございます。ちなみに、第一原発から四十キロに家がございます。生まれた家でもあり、今住んでいる家でもありますけれども、朝河貫一は高校の大先輩でございまして、イエールにも、その冠のシンポジウムに招かれたこともございました。 御承知のとおり、この歴史に残る国会事故調の報告書の「はじめに」で朝河貫一が引用されています。「百年ほど前に、ある警告が福島が生んだ偉人、朝河貫一によってなされていた。朝河は、日露戦争に勝利した後の日本国家のありように警鐘を鳴らす書「日本の禍機」を著し、日露戦争以後に「変われなかった」日本が進んで行くであろう道を、正確に予測していた。」というふうに書いてございます。 たしかシンポジウムでは、先生は朝河を引用した意味を、日本人あるいは日本がもっと相対的にならなきゃいけない、こういうようなことをおっしゃっていたと記憶しておりますけれども、改めて、先生にこの場で、この国会の場で、朝河貫一を引用した意味、さらには、報告書が提出されて七年くらいたっているんですけれども、私はますます引用した意味は大きくなっていると思いますけれども、そのことについて語っていただければと思います。 さらに、質問しちゃいますけれども、石橋先生には、この間、毎度、今お話しいただいたように、七つの提言を紹介をされて、この国会できちっと、その後、実施計画、実行計画の議論ができているんですかという問いかけをされておられて、私も、非常に重く受けとめなきゃいけないし、委員会として真摯に受けとめなきゃいけないと思います。 特に、大変だとは思いますけれども、委員長にぜひお願いをしたいと思うんですね。私も、僣越ながら、委員長は三回ぐらいやりましたかね、特別委員長も二回やりました。自分で申し上げるのもなんですが、特別委員長のときは、二回とも前例になかったことをやったという自負があって、それぞれの与野党の国対委員長なんかにうまく根回しをしながらやったという思いがあります。はっきり言って、委員長が本気になるかどうかだというふうに思います。 きょう、私、石橋先生にお聞きしたいのは、ぜひ委員長の決意もお聞きしたいんですけれども、石橋先生、もちろんこの進め方とか手順については我々が考えなきゃいけない話なんですけれども、先生の中で、こういう進め方、こういう手順があるんじゃないかというのがあればお尋ねをしたいなと。 私は、まずこの提言の中で、既に、客観的に見て、委員会が、まあこれはできたんじゃないか、ここはできていないんじゃないかということをまず委員会としてきちっと整理して、それを公表するところから始めて、未達の部分について実施計画をつくる、そういう手順かなと思っているんですけれども、一歩進んで、手順とか進め方についてアドバイスがあればいただければと思います。 ありがとうございます。
○黒川参考人 御存じかもしれませんが、私は医者なんですけれども、多くの人たちがアメリカとかイギリスに留学することが多かったわけですね。 私も機会があってアメリカに留学して、ペンシルバニア大学に行き、その後、UCLAに移って三年、普通は三年ですけれども、そのまま何か居ついちゃったんですね。居ついちゃったらもう破門ですから帰れなくなった。それで、医者で行ったんだけれども、今度は、破門になったときの医者というと、向こうの競争相手は医者ですから、だから、三十半ばにして猛烈に頑張って、向こうの医者の免許も取り、内科の専門医の資格も取り、腎臓の専門医の資格も取り、ようやっと競争のスタートになったんですけれども、それでも、頑張ってやれば、皆、非常にフェアに扱ってくれました。 しかし、個人の資格で、今度は、帰れないという状況でアメリカにいると日本のことが物すごく気になるんですよ、自分の国だから、かわいらしいから。そうすると、日本のいいところは皆わかると思うんですけれども、弱いところはなかなかわからないんだけれども、弱いところが非常に見えてくるんですね。レラティブに見られるんですね、強いところ、弱いところ。 それで、こんなことじゃ日本はやばいななんということは随分ありました。ベトナム戦争が終わったとき、七五年ですけれども、ボートピープルを日本は受け入れないというから、こんな恥ずかしいことはないなというふうに思いましたけれども、勢いそうなっちゃうんですね。 だから、そういう意味では朝河貫一もそうだったと思います。私は、朝河貫一の「日本の禍機」も前から読んでいましたけれども、やはりあの人は、二本松の出身で、高等学校を出たら、すごく勉強ができる子なので、機会があって向こうへ勉強に行って、今の高校生ですね、それからイエール大学に行き、イエール大学をちゃんと卒業した初めての日本人です。 それで、非常に優秀な成績をおさめて帰ってくるわけですけれども、そのときに彼は同じ気持ちだったと思いますね。日本が満州に行くぞというような話をしているときに、もう明らかにこれは間違いだよということをあそこにいたから書いているわけで、こんなことはしない方がいいよ、世界から見るとアメリカはそんな生易しいところでもないということを書いて、本当に私も感動していたので、あのときにやはり、「はじめに」というのに誰かをクオートしようと思ったんですけれども、もうこれは朝河貫一だなと思いまして、ああいうふうに、外で見た日本が見られる、そういう愛国心のある人、つまり、外国人はそう見ていると思うんだけれども、国を思うその気持ちが本当に出るのはやはり個人で苦労しているからこそ出るわけなので、あの言葉は本当に身にしみたなと思いまして、引用させていただきました。 そのときは、先生を始め福島の人には非常に喜ばれたし、私も二本松に三回ぐらいしゃべりに行きましたけれども、そういう偉い人があの時代に、百年前にいたということなんですね。だから、そういう意味では、そういう人をもっともっと日本はふやしてほしいと思います。 今、例えば、科学者というカテゴリーの若い人も、お年の方も含めて、世界から来る、あるいは世界に出ていくという人事の流れを見ていると、日本はもう圧倒的に少ないですね。つまり、頭の中が鎖国なんですよ。そういう国だというところを十分考えておかないと、特に若い人にはとにかく休んででもいいから外に行けと言っているのは、日本をレラティブに感じるという心が出てくるので、これは入試の偏差値とは全く関係ない話なんだと言っていますけれども、その実体験はぜひさせるといいと思いますし、何か、ほとんどデューティーにしてもらいたいぐらいだなと思っております。ありがとうございます。
○石橋参考人 ありがとうございます。 進め方、まさに先ほど先生がおっしゃったとおりなんですけれども、ぜひ、その進め方については先生方で御議論いただきたいというふうに思います。 ただ、事故調の体験から私が考えることがございます。先生方、非常にお忙しいです。事細かいかつ専門的なことになりますと、先生方がみずから手を動かしてなさるというのは、これは物理的に不可能なんだろうということを想像いたします。国会事故調はそのためにできた。幅広くかつ深く、いろいろな諸課題がある中に、民間人から成る第三者委員会をつくりまして、そこで委託をした、先生方は御判断をされるという機能分けということがあると非常に効果的なのかなということを体験として感じました。 そのことに基づいて、提言七、独立した調査委員会の活用という御提言をさせていただいている次第でございます。 ちなみに、この独立調査委員会のテーマとしては、ここの提言などに書いてある問題のほかに、事故調査委員会が取り扱わなかった事項ということがございますので、そういうところからの御議論が、まずは先生がおっしゃった課題の整理、できたところ、できていないところの整理の次にそれをやるということがあるのかなというふうに思います。 まずは実施計画ということですけれども、計画を御議論いただくときには、期限を区切って、モニタリングがきちっとできるということをおつくりいただくのが、民間ではよく行われる話でございますので、そのような形で、特に、推進とか、何とかを検討するとか、体言どめというのはよくわからなくなりますので、実際にどこまでミートするのかということを明記していただけるとモニタリングがしやすいのかなということを想像いたします。以上です。
○玄葉委員 時間が来ましたので終わります。ぜひ委員長、よろしくお願いします。
どうもありがとうございました。